逗子葉山近辺でシステム開発業を生業としてる男の地を這うような日常。

匍匐前進の日々

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たなb
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  • フリーランスのエンジニアをしてます。
    システム開発中心。家族あり。

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黒田如水
NHK「その時歴史が動いた」が黒田如水の特集だったんでつい見てしまった。
「天下は我が掌中にあり・黒田如水・関ケ原第三の男の秘策」 という大げさなサブタイトルが付いておる。

内容は、まあTV的にはOKなんだろうなあ。

ただ、俺の中の官兵衛(如水と呼ぶよりこっちの呼称のが好き)は、「山っ気」と「小心さ誠実さ」という相反する性質を「執着心の無さ、こざっぱりした性格」を接着剤として矛盾なく心の中に同居させていて、それが魅力になっている。欲で動く人を利用することに長けているくせに、自分自身は悲しいほどに義に篤かったりする。かと思うと山っ気が顔を出す局面も多々あったりする。矛盾を抱え込んで飄々としてる風である。

だから、TVで言うほど天下取りに執拗だったというイメージはない。
秀吉からの恩賞の少なさにしても、俺の中の官兵衛は「こんなもんかな」と納得してたに違いないんである。「臣はそれ中才のみ」という彼の言葉に凝縮されているではないか。
それが、TVのイメージだと、功績の割りに少なかった恩賞への不満を溜め込んでる風でいただけない。
あのノリであれば、関が原に乗じて九州を切り取ったとき、島津と一戦する賭けに出たはずである。結局、あそこで思いとどまったというのは、執着心が元々薄い人だったんでしょうねと。
圧倒的な執着心が無ければナンバー1にはなれない。
だから官兵衛はナンバー2だったんであり、名軍師たりえたんであり、そんなところが好きなんである。
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【2007/02/28 (Wed) 23:28】 日本史 // TRACKBACK(0) // COMMENT(0)
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本能寺~山崎の合戦
大河ドラマ見てて思い出した。
6月13日は山崎の合戦があった日。
本能寺が6月2日だから、天正10年のちょうど今頃の時期は、歴史が激しく動いてたわけだ。
本能寺については、秀吉陰謀説とか、家康陰謀説、朝廷陰謀説など、光秀という人の行動に謎が多いだけに数多くの説が存在する。

どの説もそれなりにもっともらしいんだが、そもそもこういった説が多数出回るぐらいに、安土城築城以降の信長公は、誰にやられてもおかしくなかったんだろうねと。誰がババ引く?なみたいな状況である。だから、俺的には誰が主犯かということはどうでもよい。
光秀の前に謀反を起こした荒木村重だって器量人である。計算高さも持っていた。明智光秀という人も勿論そう。有能で智謀もあったわけだ。本来なら決して無茶なことをする人間とは思えない。
なんか順番にババひいてる感じなのである。しかもそのババは一枚じゃない。

しかし、ここで光秀が堪えたとしても、このゲームに勝つのは秀吉だったろうなと思うわけです。秀吉も村重や光秀と同じようなストレスは抱えていたはずである。おそらく譜代の柴田、丹羽あたりも。ただし、秀吉の場合、一人の武将としての秀吉という人間自体を信長が作り上げたようなもんなワケなんで、信長に氏ねと言われれば当時の秀吉は躊躇なく死ぬことが出来たであろうことも想像に難くない。元々ゼロからスタートしている彼はほかの家臣連中に比べてもずば抜けて逞しいのである。

結局のところ、人を殺しすぎてしまった信長公という人は、当時にとっては圧倒的な異端児であり、劇薬だった。この時期このタイミングに織田信長公が歴史の舞台から姿を消すことは、中世の義経や幕末の坂本竜馬とか西郷隆盛の最期と同じように、動かしがたい必然性を感じてしまうのである。そもそも、こういう天才が京に近い尾張という土地に領地持ちとして生まれたという事実から、歴史の神の存在を感ぜずにはいられんのである。
【2006/06/12 (Mon) 05:52】 日本史 // TRACKBACK(0) // COMMENT(0)
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別所の安楽寺 - 八角三重塔 -
上田にて新幹線に乗る時刻までの暇つぶしに近所を案内してもらった。友人夫婦に感謝。
別所にある安楽寺、国宝の八角三重塔は実によかった。建造は鎌倉時代末期から室町時代初期とされ、北条氏の手によると考えられている。精緻な造りは当時の北条氏の力を象徴するかのようであった。
別所のある塩田平は戦国の世、武田氏滅亡までは重要な土地とされたようだ。(真田氏に代わって以降、中心は上田に移る) 特に鎌倉期においては頼朝も重視していたらしいし、北条氏との縁が深かったらしく、一門の北条義政がこの地に入って塩田北条氏を名乗って以降は、より栄えたらしい。信州の鎌倉という言葉は全然無理な言葉ではなかったのであった。

ちなみに塩田北条氏は鎌倉幕府滅亡の折、宗家を助けるため鎌倉に馳せ参じ一族をあげて奮戦、宗家と共に壮烈な最後を遂げたらしい。

#写真撮ったんだが、コンパクトフラッシュ用のインタフェースが見当たらないんでアップできん。そのうち更新するかもー。
【2006/05/06 (Sat) 01:07】 日本史 // TRACKBACK(0) // COMMENT(0)
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関ヶ原
昼間、メシ食いながらTV見てて思い出した。
慶長5年(1600年)の今日(9月15日)、関ヶ原の合戦の火蓋が切られた。

西軍と東軍、数の上では西軍が勝っていた。とはいえ、時代の空気は既に家康に移っていた。
合戦前夜、石田光成は、家康の挑発にことごとく脊髄反射して、手玉に取られたという感がある。頭が人一倍よく、レスポンスの早い光成だったがそれが弱点になってしまった。また、自分の正義は絶対だみたいな思い込みが最後まで災いしたという肝。正義の価値観は人それぞれなんだよな。

ともかく合戦前から勝負はある程度ついてたと思わざるを得ない。どう考えても信頼できない小早川秀秋頼みだったわけだし。島津を懐柔できなかったのも痛い。

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【2005/09/15 (Thu) 18:58】 日本史 // TRACKBACK(0) // COMMENT(0)
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我慢とセンスとクソ度胸
黒田官兵衛は、腕力のある大男ではなかった。
しかし、戦闘指揮をやらせると、その度胸、判断力が群を抜いていたといわれる。

陣地を守ってると、敵が自分らを殺しにこっちに向かってくるわけだ。
そんな敵を前にして、こっちは鉄砲を構えて待ち受ける。しかし、官兵衛はなかなか射撃命令を出さない。それどころか風に吹かれて飄々としてたらしい。それを見て兵卒も恐れの心が和らぐ。
で、敵兵の顔がはっきりとみえ、その鼻の穴が見えるぐらい間近に来たときに、いっせいに射撃をさせたといわれている。

これがなかなか出来ない。
要するに事を起こすタイミングということだ。
こっちのアクションが最大限に効力を発揮できるギリギリのポイントまで我慢するということ。
これが、出来んもんなのよ、凡人には。

はやる自分を抑える我慢
最適なタイミング(間合い)を見抜くセンス
そして自分を殺しに来る相手がみるみる近づいてきても平然と構えてるクソ度胸

これがあれば、大抵のことはクリアできるんじゃないかと思う昨今。
我慢だよね我慢。

【2005/09/11 (Sun) 03:19】 日本史 // TRACKBACK(0) // COMMENT(3)
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頼朝のこと
インテリには頼朝マンセーの人が多い。

ちょっと前にTVで義経特集をやってたとき、まとめのところで、早稲田の吉村作治教授は空気を読まないで義経そっちのけで頼朝をベタ褒めしてたっけ。
永井路子と司馬遼太郎がその道筋を作ったのかどうかは知らないが、義経は頼朝の思惑を理解できなかった情の人という印象がある。あ、勿論世間一般の伝統としては、マキャベリストの頼朝より義経が大人気なわけだけど。今でも。


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【2005/07/10 (Sun) 18:25】 日本史 // TRACKBACK(14) // COMMENT(0)
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写真
super.jpg
写真ってのはとどのつまりは、撮る人の生き様なんだろう。

上手い下手があることは素人の俺にもわかるが、
結局のところは、好きか嫌いかで判断する。

medved氏の写真は、好きである。

medved氏の写真は、
地下道の中で何時間も迷いつづけるような夢とか
白熱電球の街灯が灯る瞬間の安心と不安が入り混じった空気とか

無理にこじつければ、そんなようなものに例えられるが
実際には実体のない、
不確かな記憶の片隅に仮死状態にあるようななんらかのモノが
ムクムクと起きだして脳裏をノックするような
そんな錯覚を呼び起こしてくれる気がする。

これらの作品に、彼等の音楽が加わると、
これがまさに悪夢の再現となるか、
極楽浄土の甘美な調べとなるか
とまれ
中途半端なことにはならないことだけは確かだと思ったりする。

※写真は上記の人の作品ではないよー。とあるスーパーの中にて、撮影。


【2005/06/28 (Tue) 01:02】 日本史 // TRACKBACK(51) // COMMENT(2)
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福沢諭吉の父は薄給だった・・・ハァ?
福沢諭吉の父は薄給だったという記事なんですが、福沢諭吉の生家は中津藩の下級武士で、かな~り貧しかったってのは、そこそこのレベルで常識の範囲内のような気がするんですが、どうなんだろ?
「門閥制度は親の仇でござる」という『福翁自伝』の中の一節は、読んでない俺でさえも知ってるし。

「貧しさを裏付ける資料」と書けばいいのに、これじゃ記者が無知みたいだな。無知なのか?

以下記事から抜粋。
◇中津藩の下級武士だった福沢諭吉の父・百助の家禄(かろく)を示す古文書が、大分県中津市で見つかった。当時の“給与明細”で、かなり薄給だったことが分かった。


【2005/02/28 (Mon) 22:59】 日本史 // TRACKBACK(21) // COMMENT(0)
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